軍艦「武蔵」と乗組員たちの航跡
目次
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第一章 「武蔵」建造
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第二章 連合艦隊旗艦として
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第三章 マリアナ沖海戦と「武蔵」
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第四章 シブヤン海の対空戦闘
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第一節 第一次対空戦闘
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第二節 第二次対空戦闘
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第三節 第三次対空戦闘
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第四節 第四次対空戦闘
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第五節 第五次対空戦闘
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第六節 「武蔵」沈没
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第五章 漂流
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第六章 「武蔵」乗組員たちのその後
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第七章 フィリピン方面残留組の運命
第一章 「武蔵」建造
昭和十一(一九三六)年十二月にワシントン海軍軍縮条約が失効することを見据えた海軍は、「昭和十二年度海軍補充計画」を策定し、大和型戦艦を含む艦艇六六隻、航空隊一四隊の建造増設を五ヶ年に亘って整備することを決定した。その中でも、計画名「A140-F6」の大和型戦艦は、基準排水量六万四〇〇〇トン、速力二七ノット、主要兵装備として四六センチ主砲九門、一五・五センチ副砲十二門、一二・七ミリ高角砲十二門、偵察機と観測機六機を搭載する世界最大最強の戦艦とされた。
昭和九(一九三四)年頃より海軍省内の艦政本部が担当し、第四部(造船部門)部員であった福田啓二海軍造船大佐を設計責任者、海軍造船の大家で当時東京帝国大学総長になっていた平賀譲予備役海軍造船中将を相談役に迎え、度重なる海軍部内からの要求に応えつつ、昭和十二(一九三七)年三月に完成した。
「昭和十二年度海軍補充計画」は、昭和十一(一九三六)年十二月二十六日より開かれた第七十回帝国議会で予算の承認を受け、海軍では「第三次補充計画」に当たるため、省略して「③計画」としていた。大和型戦艦は呉海軍工廠で建造する艦を「第一号艦」(後の「大和」)、三菱重工業で建造される艦を「第二号艦」(後の「武蔵」)とという秘匿名が与えられた。建造を依頼された三菱重工長崎造船所はこの年の十月十日に六二五三万八五五〇円の見積書を提出した。この見積もりを元に同年十二月二十六日には上田宗重艦政本部長から正式に通達があり、昭和十三(一九三八)年二月十日に村上春一海軍経理局長と三菱重工の間で契約が締結され、「第二号艦」は同年三月二十九日より三菱重工業長崎造船所で起工される運びとなった。(最終的な見積は五二六五万円、追加工事などを行った結果、最終額は六四九〇万円となった。昭和二年の経済指数から換算すると、現代では四一二億七六四〇万円ほど)
海軍では基本的に、同じ型の艦(同型艦)を別々の造船所で、同時に二隻建造することで、同一の設計図を基に、同じ材料が使用される。また二箇所の造船所職員が建造のための特殊技術や技能を共有でき、建造から艤装までの期間、問題点や改良点などの検討対処が迅速に行われ、これによって経費を抑え、工期の期間短縮が可能であった。また、同型艦は基本的な仕様は同じであるため、船体の修理や保全はもとより、大和型二隻が加わっての艦隊運動なども、円滑に行える利点があった。
起工より九四六日目の昭和十五(一九四〇)年十一月一日、佐世保鎮守府海兵団からの一二〇〇名に加えて、憲兵・警察の六〇〇名が警備に当たり、長崎市内に「防空演習」が発令されて市民の外出が制限される厳戒態勢の中、「第二号艦」の進水式が挙行された。伏見宮博恭軍令部総長宮臨席の下、及川古志郎海軍大臣が進水命名書を朗読し、「第二号艦」は「武蔵」と命名されたが、機密保持のため竣工するまでは従来通り「第二号艦」と呼称することに決定された。
画像は、海軍部内に「軍艦武蔵」の命名を知らせるものであるが、公表された時期が竣工後であったため、海軍大臣が及川古志郎ではなく嶋田繁太郎となっている。ー「達第二百四十一号」『昭和15年1月〜12月 達』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12070107900、528頁。
同年十一月七日、「第二号艦」は日本郵船の客船「春日丸」(後の改造空母「大鷹」)に隠されながら造船所内の向島岸壁に移され、艦上構造物や艦内諸設備の設置、動力機械や航海機器の搭載などを行う艤装工事が開始された。昭和十六(一九四一)年七月一日には推進器取付のために佐世保海軍工廠の第七ドックに入り自力航行が可能となった。その後、長崎に戻って艤装が続けられたが、九月十日には有馬馨艤装員長以下、艤装員(就役後はそのまま乗組員となる)の発令が行われた。艤装員たちは機密上の観点から艤装員長の名前をとった「長崎造船所内有馬事務所」所属とされ、人員の出入りは厳しく制限されていた。
辞令上では佐世保鎮守府附として発令されている。ー「昭和十六年九月十日」『昭和16年2月8日 昭和16年9月11日 海軍辞令公報(部内限)』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13072110000、559頁。
昭和十六(一九四一)年十二月八日、主砲の搭載を終えた「第二号艦」であったが、奇しくもこの日、日本海軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発した。開戦を受けて造船所では九日より高角砲と機銃の急速整備を行い、二十五日には呉鎮守府工務部より防潜網が配置されるなど、一刻も早い完成が求められていた。また、昭和十七(一九四二)年四月十八日、東京がドーリットル空襲を受けると、「二号艦」では対空人員若干名が艦内居住を開始し、五月七日には艤装員全員の艦内居住が始まった。
五月二十日、「第二号艦」は初めて自力で呉まで回航し、この時に操艦が三菱造船所の長妻英二船長から宮雄次郎航海長へと引き継がれた。呉海軍工廠の第四ドックに入り、最後の調整を行った後、六月五日に生起したミッドウェー海戦の四日後、九日にドックを出た「第二号艦」は十八日から二十六日まで伊予灘において、合計十三回の公試運転を実施した。その後、再度ドック入りして司令部設備を増築し、七月二十四日から三十日まで伊予灘で兵装関係の公試運転を経て、昭和十七(一九四二)年八月五日、一五九一日の月日を費やして遂に竣工した。
八月五日午前九時、「第二号艦」の引き渡し式は前甲板で挙行され、正式に三菱重工長崎造船所から海軍へ引き渡された。この日から「第二号艦」は「武蔵」になり、併せて有馬馨艤装員長は艦長となり、艤装員や艤装員附たちは正式に「武蔵」乗組員となった。そして、「武蔵」は横須賀鎮守府籍の軍艦として第一艦隊第一戦隊に編入され、日本海軍の戦艦として戦列に加わった。
『昭和17年7月〜9月 内令 3巻』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12070164400、1518頁。
「昭和十七年八月五日」『自昭和17年7月 至昭和17年10月 海軍辞令公報』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13072086500、645頁。
建造された「武蔵」は次のような性能を誇っていた。
・全長 263メートル
・最大幅 38.9メートル
・公試排水量 69,000トン
・基準排水量 64,000トン
・満載排水量 73,000トン
・最大速力 27ノット(時速約50キロ)
当時の世界海軍のどこを見渡しても、これほど巨大な軍艦は存在しなかった。また現在では戦艦を運用する国はなく、したがって「武蔵」と「大和」が世界最大の超弩級戦艦ということになる。主砲は四六センチ砲三連装を三基、計九門を搭載している。米海軍で一番大きなアイオワ級戦艦(基準排水量四八四二五トン)の主砲は、四〇・六センチと一回り小振りである。また主砲弾の重量を比較すると、大和型は一四六〇㎏で、これに対してアイオワ級は一二〇〇㎏と小さく、当然破壊力は劣る。
戦艦「アイオワ」
それでは「大和」型とアイオワ級の戦艦が、一対一で砲戦を演じたら結果はどうなるだろうか。大和型は砲弾の大きさに加えて、射程距離は約四万二〇〇〇メートルと、水平線の遥か彼方まで飛ばせる。一方のアイオワ級は約三万八〇〇〇メートルまでしか届かない。となると、勝敗はおのずと決してしまう。それでも仮にアイオワ級が射程内にまで踏み込んで、「大和」型に砲弾を命中させたとしよう。ところが、大和型船体の主要箇所には分厚いアーマー(装甲鈑)が張り巡らされているので、砲弾は貫通できずに跳ね返されてしまう。計算上では、本艦が搭載する四六センチ砲弾でなくては、「大和」型に致命傷を与えられない。
したがって「武蔵」乗員のほとんどは、「絶対不沈艦」だと信じて、来るべき海戦に臨んだのだった。
第二章 連合艦隊旗艦として
竣工した「武蔵」は瀬戸内海にて訓練を行い、その間に海軍兵学校を卒業した七〇期、七一期の初級士官訓練艦としての役割も務めていた。またこの間、「軍艦武藏会」初代会長となる加藤憲吉大佐が二代目の副長として着任している。そして「武蔵」は、昭和十八(一九四三)年一月十五日に連合艦隊へ編入されることが決定した。
二代目副長/「軍艦武藏会」初代会長 加藤憲吉海軍大佐
当時、連合艦隊の第一線本拠地は西太平洋カロリン諸島にあるトラック島(現在はチューク諸島)にあった。同島は第一次世界大戦終結後に日本の委任統治領となって以降、日本海軍の要港として整備されていた。「武藏」は同年一月十八日に広島県の呉を出港し、二十二日にトラック島へ到着した。
日本の委任統治領時代のトラック島
昭和十八(一九四三)年二月十一日、連合艦隊旗艦は「大和」から「武蔵」に変更となった。この日、山本五十六連合艦隊司令長官は「武蔵」に移乗すると、艦上に将旗を掲げた。これ以降、昭和十九(一九四四)年三月三十一日に旗艦の任を解かれるまでの約1年2ヶ月半、「武蔵」は旗艦として日本海軍のシンボルであり続け、太平洋戦争中に旗艦を務めた中で最長の記録となった。
1942年当時の連合艦隊司令部。右から5人目が山本五十六、その左は参謀長を務めた宇垣纏。
しかし、トラック島に停泊する「武蔵」は戦闘の機会に恵まれず、日だけが空しく経過していった。そして、昭和十八(一九四三)年四月十八日、前線視察に赴いた山本長官はブーゲンビル島上空で搭乗の一式陸攻を撃墜され、戦死を遂げた。(海軍甲事件)
長官の遺骨は二十三日に「武蔵」へ帰艦し、二十五日には後任の司令長官として古賀峯一大将が着任した。新長官の下での「武蔵」の最初の任務は山本元帥海軍大将の遺骨を日本へ届けることだった。五月十七日にトラック島を出発した「武蔵」以下一一隻の艦艇は二十二日に千葉県木更津沖に到着し、六月五日に山本元帥海軍大将の国葬が執り行われた。
1943年、「武蔵」後甲板で撮影された連合艦隊司令部。左から4人目が古賀峯一長官。長官の左側には福留繁参謀長、右側には小林謙五参謀副長が座っている。
国葬から四日後の九日、二代目艦長として古村啓蔵大佐が着任し、横須賀沖へと場所を移した「武蔵」に 昭和天皇の行幸が行われることが通達された。その結果、六月二十二日から「武蔵」では外部との接触を一切禁止し、加藤副長の指揮によって万全の準備が整えられた。六月二十四日午前十一時五分、 昭和天皇は右舷舷梯から「武蔵」に乗艦し、後部マストに天皇旗が掲げられた。
1943年6月24日、行幸時の記念写真。前列中央に 昭和天皇、左側に高松宮宣仁王が座られている。二列目右から8人目に古村艦長が写っている。
行幸を終えた「武蔵」は瀬戸内海で諸訓練を実施後、七月三十一日にトラック島へ向けて出港、八月五日に到着した。戦局は差し迫りつつあったが、十月十七日にブラウン島(現在のエニウェトク環礁)へ、二十三日にウェーク島へ警泊した以外はトラック島で訓練の日々が続いた。
十二月六日、トラック島にて三代目艦長の朝倉豊次大佐が着任し、「武蔵」は整備補給のために横須賀へと向かった。横須賀へ到着してから二日後の昭和十九(一九四四)年二月十七日、トラック島は米機動部隊の大空襲を受けて壊滅し、連合艦隊は根拠地をパラオへと移したため、「武蔵」も二十九日になってパラオに到着した。一ヶ月後の三月二十九日、敵空母部隊艦載機による空襲が近いと判断した連合艦隊司令部は、将旗を「武蔵」から陸上基地へと移した。と同時に、「武蔵」に対してパラオからの退避を命じた。「武蔵」が急遽パラオの環礁を抜けて外洋に出た時だった。水道出口で待ち受けていた米潜水艦「タニー」の雷撃を受けた。魚雷一本が艦首右舷の錨鎖庫に命中、七名の戦死者を出した。
第三章 マリアナ沖海戦と「武蔵」
昭和十九(一九四四)年二月三十日から三十一日にかけてパラオに来襲した米機動部隊による空襲のさなか、ダバオへ飛行機で移動していた古賀峯一長官は途中で消息を断ち、三十一日に殉職と認定され、元帥号が送られた。(海軍乙事件)
古賀長官の後任には豊田副武大将が選ばれたが、建軍以来、戦艦が担ってきた連合艦隊の旗艦は通信能力の高い軽巡洋艦「大淀」に変わった。一方、雷撃による損傷を受けた「武蔵」は呉に帰投し、修理と対空兵装の強化を受けることとなり、中部甲板両舷に二基備え付けられていた一五・五センチ副砲が外され、代わりに機銃と高角砲が増設された。また、電波探信儀(レーダー)の増設も行われ、航空攻撃に対する強化が図られた。
その後、機能の諸試験を終えた「武蔵」は、五月十一日、大分県佐伯湾を出港、沖縄県の中城湾を経由して、十六日にフィリピン南部のタウイタウイ泊地に到着した。
到着後の二十日、日本海軍はマリアナ諸島沖で米軍を迎え撃つ「あ号作戦」発動、二十七日にインドネシアのビアク島へ米軍が上陸すると、その支援のために「渾」作戦が発令された。六月十日、「武蔵」は第三次渾部隊へと編入されてタウイタウイを出撃したが、十二日にバチャン泊地に到着した時点で米軍がマリアナ諸島に来襲したことから作戦は中止となった。
六月十七日、栗田健男中将率いる第二艦隊第一戦隊(司令官:宇垣纏少将)に属する「武蔵」は、小沢治三郎中将率いる第三艦隊(参謀長:古村啓蔵少将)と共にマリアナ諸島、パラオ沖へと進撃、十九日から二十日にかけて米機動部隊との間で「マリアナ沖海戦」が繰り広げられた。「武蔵」はこの海戦で初めての実戦を経験し、主砲を発射したが、戦果は挙げられなかった。海戦の結果は、日本海軍の敗北に終わり、航空母艦「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」を喪失した。
「あ号作戦」終了後、瀬戸内海の柱島錨地にあった「武蔵」は、陸軍部隊を乗艦させると、七月十日にリンガ泊地へと向かった。振り返ると、これが「武蔵」にとっては日本との別れの日となった。
十六日、リンガ泊地に到着した「武蔵」は、輸送船に陸軍部隊の移動を終えると、「大和」以下の艦艇群に合流を果たした。以降、「武蔵」は連日のように猛訓練に明け暮れる日々を送った。
八月十五日、猪口敏平大佐(十月十五日・少将へ進級)が「武蔵」に四代目艦長として着任した。
第四章 シブヤン海の対空戦闘
昭和十九(一九四四)年十月十七日、米軍は突如としてフィリピン・レイテ湾口のスルアン島に上陸を開始した。翌十八日、日本海軍はこれを阻止するために、多数の艦艇と航空機をもって、レイテ湾突入作戦、すなわち「捷」一号作戦を発動した。栗田健男司令長官直率の第一遊撃部隊主隊(以降、栗田艦隊と呼称)の第一と第二部隊は、戦艦五、重巡十、軽巡二、駆逐艦十五の計三二隻、西村祥治が率いる支隊の第三部隊(西村艦隊)は、戦艦二、重巡一、駆逐艦四の計七隻からなり、総計三九隻で編成されていた。また、栗田艦隊の動きに呼応して、小澤治三郎司令長官が指揮する機動部隊本隊(第三艦隊)と、第五と第六基地航空部隊が、米艦隊の牽制と攻撃を実施す計画だった。
「武蔵」の所属する第一戦隊の司令官を務めた、宇垣纏 海軍中将
米軍の主力はウィリアム・フレデリック・ハルゼー・Jr司令官(大将)が指揮する第三十八任務部隊(TF38)の四個機動部隊で、正規空母九、軽空母八、戦艦六、重巡六、軽巡九、駆逐艦六二、合計一〇〇隻に及ぶ大部隊である。
第一遊撃部隊は世界最大の戦艦「大和」と「武蔵」を擁している。その「武蔵」には、准士官以上一一二名、下士官兵二二七九名、傭人(軍属)八名の総員三三九九名と、これに聯合艦隊と第二艦隊、第一機動部隊の各司令部附が九名と、「長門」乗員九名が加わって、総員二四一七名が乗組んでいた。
ブルネイに停泊する第一遊撃部隊。手前から戦艦「長門」、重巡洋艦「高雄」、戦艦「大和」「武蔵」が並んでいる。
十月二十日、リンガ泊地から移動した栗田艦隊がブルネイ湾に錨を入れた二時間前に、レイテ湾岸に米上陸軍が橋頭保を確保した。そして、この日に約六万の兵員と戦略物資の揚陸に成功した。レイテ島を奪われれば、次はルソン島の進攻に移り、やがては南方からの輸送航路は遮断されてしまう。栗田艦隊の各艦は油槽船からの燃料補給、作戦会議、諸機械と兵器の再点検を実施、出撃準備に忙殺された。
二十二日午前八時、第三部隊(西村艦隊)と別れた栗田艦隊(第一、第二部隊)はブルネイ湾を出撃、レイテ湾を目指して北上を開始した。
午後十一時、艦隊は一八ノット(時速約三三キロ)から一六ノット(時速約三〇キロ)に減速すると、これまで実施していた之字運動(ジグザグ航行)も止めて、直進を開始した。理由は油槽船を帯同していない艦隊にとっては、燃料の節約は必須の課題だったからだ。
二十三日零時、艦隊はパラワン水道の南口に達した。南北に延びる水道の右はパラワン島の陸岸、左には新南諸島(現・南沙諸島)の暗礁群が展開している。艦隊が安全に航行できる限定海域は二五浬(約四五キロ)しかなく、敵潜水艦にとっては、低速で直進する艦艇群は、絶好の標的となろう。
午前六時三十分過ぎ、パラワン水道の半ばに達した時、深夜から追跡していた敵潜(「ダーター」「デース」)から雷撃され、旗艦「愛宕」と「摩耶」が轟沈した。大破した「高雄」は駆逐艦二隻に護衛され、ブルネイへと回航された。「武蔵」に被害はなかった。しかし、重巡二隻を喪い、重巡一隻と駆逐艦二隻の離脱によって、栗田艦隊の兵力は早くも二七隻に減じてしまった。
午後三時四十分、「大和」に「岸波」が横付けすると、「愛宕」に乗組んでいた栗田長官以下二二一名が収容された。一方、「武蔵」には、「秋霜」から「摩耶」乗員の七六九名が移乗した。これによって「武蔵」の乗艦者数は三一八六名になった。
午後四時三十分少し前、栗田長官は「大和」に旗艦変更した旨を全関係方面に打電、陣容を立て直すと、再び北上を開始した。
第四章第一節 第一次対空戦闘
十月二十四日、タブラス海峡入り口に達した栗田艦隊は、午前七時四十七分過ぎに対空配備の輪形陣を制形した。第一部隊は「大和」を、第二部隊は「金剛」を中心に艦艇を二重に配した。この時「武蔵」は、「大和」右後方の内輪に占位していた。
午前八時十分過ぎから、数機の敵偵察機に接触された艦隊は、十時九分以降、各艦艇の電探(レーダー)が次々と敵の大編隊を捕捉した。
午前十時二十三分、戦爆雷連合の四四機に対して「大和」の主砲が火を噴いた。だが「武蔵」の主砲は、厚い雲に見え隠れする敵機群を照準できずに、発砲の機会を失した。副砲と高角砲の弾幕を掻い潜って迫る急降下爆撃機に対して、右機銃群が射撃を開始したが、有効な射弾を送れずに、内懐に侵入を許した。投下された爆弾五発のうち、四発は至近弾となり、もう一発は一番砲塔の天蓋に命中したが、幸い不発弾だったために、跳ね返って海中に落下した。続いて雷撃機が「武蔵」の右舷方向から投下した航空魚雷の一本が船体中央部の第七と第十一罐室の中間に命中した。魚雷は水線下に張り出したバルジと二層からなる甲鈑を突き破って、魚雷防御縦壁で爆発し、艦内に約三〇〇〇トンの海水が流入した。このため右舷に約五・五度傾斜したが、反対舷に注水して右一度まで復原した。
被害は浸水だけでなく、主砲射撃方位盤の旋回が不能になってしまった。方位盤は主砲発令所の方位盤とともに、各砲を正確に連動指向させて、目標に対して砲撃する装置である。その方位盤が故障したことで、前部の一番と二番砲塔では、砲台長の指揮で各個に砲側照準での砲側射撃となり、命中率は格段に低下した。
空襲は約十八分間続いて、午前十時四十七分頃に敵機は視界から消えた。この対空戦闘で第一部隊の「妙高」が被雷し、単独戦列を離れてコロンへと避退した。
第四章第二節 第二次対空戦闘
午前十一時二十四分、艦隊はバントン島の北西において東に針路を取ると、一八ノットの速力でシブヤン海に突入した。このまま進めば、ティカオ海峡、次いで狭隘なサンベルナルジノ海峡がある。その海峡を抜ければ、目指すレイテ湾はそう遠くない。
午後〇時七分、向かってくる三五機の敵編隊と対空戦闘が開始された。「武蔵」の主砲が始めて砲門を開いた。ただし、方位盤故障のために一斉射撃はできず、各砲塔が単独に三式弾を九発発射しただけだった。巻雲の間から現れた急降下爆撃機が、「武蔵」目掛けて順次ダイブの態勢に入った。仰角が利く無蓋の機銃が応戦した。しかし、本艦が左右に転舵を繰り返すために、照準器の中に敵機を捉えるのに難儀させられた。
急降下爆撃機は高度一〇〇〇メートルを切ったあたりで、次々と爆弾を投下した。一発は左舷最前部の露天甲板を貫き、上甲板の兵員厠で炸裂、同時に艦首の左舷側が朝顔の花のような「マクレ」を生じさせたことで、速力減退の要因を作った。
もう一発は、左舷中部の露天甲板と上甲板を貫いたが、中甲板に敷かれた厚さ二〇〇ミリの装甲鈑(アーマー)で、四五〇キロ爆弾を跳ね返した。
二発の被弾によって、機銃と高角砲の発砲電路の多くが破壊された。これによって対空戦闘に必要な各種データの発信が断たれたために、前部主砲塔同様に各砲台での「単独打ち方」になり、対空火器の威力は半減した
横一線に並んだ八機の雷撃機が、「武蔵」の左舷目掛けて次々と魚雷を放ち、うち三本が命中した。一本目は一番主砲下の下方で爆発、防御甲鈑外側の防水区画に大量の海水が流入した。二本目は一番主砲横の水線下に当り、第二水圧機室を浸水させた。三本目は煙突下に命中、またも左舷側が浸水した。
また、戦闘中に雑用蒸気が第二機械室と機関科指揮所に逆流し、高温の蒸気による熱射病で、多くの運転員が斃された。これによって機械は停止され、四つあるスクリューの1本が止まり、「武蔵」は三軸跛行運転となり、発揮できる最大速力は二二ノット(時速約四一キロ)になった。
第二次対空戦闘は、午後零時十五分に終了した。この八分間で「武蔵」が被った被害は爆弾二と魚雷三で、前回分を合わせると爆弾三発と魚雷四本を被った。
第四章第三節 第三次対空戦闘
午後一時三十分から五十分頃までの約二十分間、第三次対空戦闘は二波にわたって戦わされた。
第一波の空襲では、戦爆雷連合三四機のうち、一三機が「武蔵」を襲撃した。急降下爆撃機は艦尾方向、雷撃機は右正横の二方向から、雷爆同時攻撃を敢行した。
魚雷の一本が右舷一番砲塔前方に命中、薄い外鈑を突き破って爆発、第二船艙甲板の測距儀室と測深儀室を破壊、海水の流入を招いた。この魚雷の爆発で発生したCOガス(一酸化炭素)は艦内を伝わり、前部戦時治治療室に侵入し、収容されていた兵員と衛生兵の多くがガス中毒死した。
第一波が終息してから十分もしないで、第二波空襲がはじまった。約二〇機の敵機は三隊に解列したが、そのほとんどが「武蔵」を襲った。爆弾三発が左舷前甲板に集中命中し、前部治療所、医務施設、兵員室の一部を破壊し、第一、二、三の応急員は総員戦死した。四発目は上甲板の厨業事務所内と付近を破壊した。
右正横から雷撃機が投下した魚雷のうち三本が命中した。一本目は一番砲塔周囲の浸水区画を拡大した。二本目は一番副砲下の舷側に当ったが、集中防御区画に異常は認められなかった。三本目は第三冷却室付近で浸水がはじまった。さらに左舷方向から四本の魚雷が投下され、一番砲塔付近の舷側に命中、前部に大量の海水が流入した。
罐室や水圧機室の天井に設置された出入り口の防水扉蓋の上に、破壊された隔壁が折り重なった。閉じ込められた室員は、内部が高温状態であるために、熱射病でバタバタと倒れた。応急員の必死の働きで、幾つかの罐室は解放されたが、第三水圧機室の上部は冠水状態になったために、救出作業は断念された。
第三次対空戦闘で「武蔵」は、爆弾四発と魚雷五本を受けた。これまでの被害を合計すると、爆弾七発と魚雷九本になった。この時、「武蔵」が誇る一一四七の防水区画のほとんどが、浸水あるいは注水によって満水状態になっていた。傾斜は右に一度まで復原されたものの、前部の浸水ははなはだしく、艦首は四メートル沈下して、第一部隊の隊列から急速に落伍をはじめた。
第四章第四節 第四次対空戦闘
敵攻撃隊が去ってからおよそ十分後の午後二時十八分、「大和」に続いて「長門」が距離二万五〇〇〇メートルに新たな飛行機群を発見した。
シブヤン海の天候は、所々に青空が覗いてはいるものの、広く厚い雲に覆われていた。今回の攻撃隊は、雷撃機を伴っていない。雲に視界を阻まれた状況で、急降下爆撃機は三〇〇〇メートル以上の高度から目標目掛けて降下していく。したがって「武蔵」は、たまたま雲に隠れた位置にあったおかげで、空襲をまぬがれた。
それでも「武蔵」は、「大和」に襲撃運動中の敵機に対して援護射撃を実施、主砲弾七発,高角砲弾一一八発を発射した。
午後二時五十分、「武蔵」の猪口敏平艦長は第一戦隊の宇垣纒司令官宛に、『両舷防水区画殆ド全部浸水又ハ注水ノ爲速力出シ得ズ 出シ得ル速力二〇節ノ見込』との報告を送った。二〇ノット(時速約三七キロ)の速力では艦隊との行動はできないと訴えたのだ。
そこで午後三時十分、栗田長官は「武蔵」に対して、「カラミアン島のコロン湾経由で、台湾の馬公へ向かえ」との避退命令を出した。
だが時すでに遅く、午後二時五十五分に栗田艦隊は敵大編隊を発見、二四ノット(時速約四四キロ)に増速した。またも第一部隊と「武蔵」の距離は大きく離れていった。
第四章第五節 第五次対空戦闘
午後三時五分以降、米空母四隻が放った戦爆雷の攻撃機一三九機が、栗田艦隊への空襲に参加した。このうち半数近くが「武蔵」に攻撃を加えた。
命中弾は一〇発を数え、多くの機銃台が破壊され、機銃員が殺傷された。
艦内では第八罐室に火炎と高温蒸気が噴出、罐部員の多くが熱射病で倒れた。第四罐室では室内の照明が消え、すべての通信装置が機能不能となった。また、士官室と司令部庶務室が破壊され、第七罐室の防水被蓋の上に圧壊した隔壁が折り重なり、罐部員が閉じ込められた。
至近弾は右舷側に四発、左舷側に二発が連続して落下、水柱が船体を挟んで林立した。やがて水柱が崩れると、膨大な量の海水が、艦上に降り注いだ。舷側から張り出して設置された覆塔のない裸の七、八、九、十番機銃台の機銃員のほとんどが、洋上に押し流された。
爆弾だけでなく、海面すれすれに突入してくる雷撃機や、投弾後に上空に居残った急降下爆撃機の銃撃によって、機銃員や運弾員が被弾した。また、戦闘機は雷爆撃の前後や合間を狙って、「武蔵」艦上に機銃掃射を繰り返して、対空班員や見張員の被害が続出した。
発射された魚雷は優に二〇本は超えていたと考えられる。そのうち被害を与えた魚雷は、確認できたものだけでも、左舷に九本、右舷に二本の計一一本を数える。
一、二、三本目は、左舷前甲板横から一番主砲塔前付近に命中、四号ビルジポンプ室が瞬時に満水となった。四、五本目は、一、二番主砲塔右舷側に当り、艦内を広範囲に破壊した。以上、五箇所に及ぶ被雷により浸水量はさらに増加し、艦首を著しく沈下させるとともに、左舷側への傾斜を急速に増大させた。
六本目は前檣楼の左舷側で炸裂、衝撃で第八罐室側壁の鋲が弛緩して漏水した。
左舷中央部には三本の魚雷が集中した。このうちの一本は二五ミリ機銃弾庫の外舷に命中、爆圧により装甲鈑の繋ぎ目を押し開いた。つぎの二本も同一箇所に当ったが、幸いにいずれもが不発だった。
一〇本目は第四機械室外舷に命中、衝撃と水圧により側壁が破られ、室内は満水状態になった。第二に続いて第四機械室の機能が喪失したために「武蔵」は二軸運転となり、四六万馬力を誇った推進力は半減した。また、艦内で一番大きな容積の左舷側機械室が満水したことで、船体はさらに大きく左に傾斜した。
十一本目は三番主砲塔左舷側に命中、主砲や高角砲弾庫、後部転輪羅針儀室、左舷造水機室が浸水や漏水の被害を受けた。
午後三時三十分少し前、急降下爆撃機七機が「武蔵」を襲撃した。そのうちの二機が、前檣楼やや後方から逆落としで降下すると投弾した。一発は檣楼後部と煙突の間にあった高射員待機所に命中、探照灯員と「摩耶」乗員約四〇名が戦死した。
もう一機が五〇〇メートルまで降下すると、前檣楼目がけて投弾した。四五〇キロ爆弾は測距儀の一部と、その上にある右舷側電波探信儀(レーダー)の空中線(金網状)を破壊して、無数の鉄片を飛散させた。これによって、直上見張員と防空指揮所見張員、士官の一三名が戦死、一一名が負傷した。猪口艦長は戦死をまぬがれたが、右肩甲部を負傷した。
この時点でまだ爆発していない半徹甲弾は、大型双眼鏡のある右舷張り出しの一部を破壊して、下層の作戦室甲板の外壁を突き破り炸裂、「摩耶」副長以下五名が戦死、二名が負傷した。
爆発で生じた爆風と火焔は、ラッタル(階段)を伝って上層の第一艦橋に噴き上がった。これによって、仮屋実航海長以下三九名が戦死、八名が負傷した。
第五次空襲は午後三時少し前に終息した。五次にわたる空襲で「武蔵」が受けた雷爆撃は、少なく見積もっても爆弾一七発、魚雷二〇本になった。
第四章第六節 「武蔵」沈没
攻撃隊が去った午後三時三十分、今後の大空襲を避けるために、栗田艦隊は三隻の護衛艦を付した「武蔵」を残して、目指す東方とは逆の西に向かって反転した。
空襲は途絶えたが、「武蔵」の状況に改善の兆しはなかった。浸水量の増加に伴い左への一〇度になった傾斜を復原しなくてはならない。そこで執られたのは、後部の高くなった右舷甲板に重量物を移動して、できる限り左舷を起こす方法だが、さしたる重量物もないために効果はなく、続いて左舷の主錨と錨鎖を海中投棄したが、船体はピクリとも反応しなかった。
栗田艦隊は午後四時二十三分になって、針路〇度(北)に回頭すると「武蔵」に接近していった。その二分後、宇垣司令官は「武蔵」に対して、「遠距離移動が不可能な場合は、付近の島の浅瀬にのし上げて応急対策を講じる」よう指示した。
猪口艦長は「武蔵」の最期が近いことを予期したのか、左舷艦尾に駆逐艦「島風」を横付けさせて、「摩耶」乗員六〇七名、聯合艦隊と第二艦隊附職員四名の移乗を開始した。ただし、「摩耶」の准士官以下四十五名は、応急作業援助のため「武蔵」に残留した。
午後五時を大きく過ぎて、再度反転して戻ってきた艦隊は、「武蔵」と護衛駆逐艦の「濱風」と「清霜」を残して、サンベルナルジノ海峡に向かって進撃して行った。
その後「武蔵」は、右舷外側の三、七、十一罐室に注水を試みたが効果を確認できず、隣接する第三機械室にも注水した。しかし海水は左舷側隔壁のほうに寄ってしまい、傾斜の増大を助ける結果になってしまった。
駆逐艦「磯風」水雷長の白石東平大尉が撮影した「武蔵」最期の写真。艦首部分が沈み込んでいるのがわかる。
午後七時十分頃、第二艦橋で猪口艦長は加藤憲吉副長以下の幹部に、これまでの労をねぎらった。そして加藤副長には戦闘の所感と、艦長としての責任のあり方を明記した手帳と愛用のボールペンを手渡すと、自身は艦と運命を共にする旨を告げた。最後に艦長は、「最悪の処置として、御写真(天皇皇后の御写真)を奉遷すること。軍艦旗を降ろすこと。乗員を退去せしむること」を命じた。
その後、加藤副長は後甲板に集合した乗員に、最後の訓示行うと、「総員退去」と告げた。期せずして、「バンザーイッ」の声が起こった。二度目の万歳が唱和され、三度目を発しようとした時だった。船体が急激に左に大きく傾いた。
乗員たちは、一方の左に傾いた甲板を、もう一方は右の雑貝が一面に張り付いた船腹を滑り落ちて、どちらも海上に投げ出された。
高さ三〇メートルの前檣楼が海面を激しく叩いた。海中に半ば没した煙突から、轟音と同時に海水と一緒に炎が吐き出されると、水蒸気が暗闇に広がった。次いで右舷の船腹から噴き出した火炎が海中を真紅に彩った。
左に横倒しの状態になった「武蔵」は、艦尾を突き立てながら艦首から徐々に沈んでいった。二度目の水中爆発が起こった。海面が白く泡立つと炎が走った。やがて「武蔵」は静かに波間に消えた。
昭和十九年十月二十四日午後七時三十五分のことだった。
第五章 漂流
「武蔵」の沈没と同時に、大勢の乗員が海中に引きずり込まれた。息を保てた者はようやく海面に浮上できたが、場所によっては三〇センチにもなろうかという重油の層が広がっていた。泳ごうにも油に絡まれた身体は自由にならず、幾度となく重油混じりの海水を飲まされては、嘔吐を繰り返した。これが原因で溺死する者は、多数にのぼった。
艦が沈むと防舷物やドラム缶、円材、小さなものでは梯子や簀子板、木箱などが浮かんでくる。これらの浮遊物に出会えなかった者は、立ち泳ぎや浮き身をして、ひたすら救助を待たなければならない。泳ぎができる者に、泳げない者がしがみついてくる。振りほどこうとしても離れないため、息が続く限り潜り続け、相手の息が尽きた時に振りほどく。また、寄ってきた者を蹴ったり、噛みついたりして、我が身を護った。
浮遊物にありつけたとしても安心はできない。時間が経つにしたがって眠ったまま沈んでしまう者が多く出た。
「武蔵」の沈没を確認した護衛駆逐艦の「濱風」と「清霜」は、すぐさま「溺者救助用意」発令した。「濱風」は徐々に速度を落としながら沈没地点に進むと、信号探照灯を点じた。暗い海面に幾つもの漂流者の一団が浮かび上がった。風上で漂泊状態にすると、舷側に風を受けた船体が風下に浮かぶ集団に近づいていく。近くの漂流者が泳ぎ寄ってきて、舷側に垂らした縄梯子と先端を輪にしたロープを伝って、次々と登ってきた。
「清霜」は本艦での直接救助と並行して、カッターによる救助を開始した。やがて満員になったカッターは、本艦の舷梯に着けて救助者を移乗させると、再び漕ぎ出した。艇員に交代はなく、何往復かすると誰もが疲労困憊した。
救助を開始してから三時間が経過した。探照灯に照らされた漂流者の塊は、まだいくつも認められ、大勢の人間が外舷に泳ぎ着いて助けを待っている。体力がある者は綱梯子やロープにすがることができたが、手足が萎えた者には難しかった。途中で何人もが、海中に落下して、二度と浮かび上がらなかった。
十月二十五日の午前零時が過ぎた。漂流者の数は格段に減少したが、二、三人のグループや単独の者が散発的に発見された。
午前一時、「清霜」の梶本顗艦長は、「濱風」の前川萬衛先任艦長宛に、発光信号で『本艦遭難者救助終リ』と報じ、カッターや舷梯、救助要具等の収納作業に移った。「清霜」の報告を了解した前川艦長は、午前一時三十分になって「濱風」の救助作業の終了を告げた。救助開始以来、実に六時間近くが経過していた。
「武蔵」と「摩耶」の乗員約一四〇〇名を収容した「濱風」(約九〇〇名)と「清霜」(約五〇〇名)は、暗夜のシブヤン海をフィリピンのマニラ湾に向かった。
第六章 「武蔵」乗組員たちのその後
十月二十六日午前九時三十分過ぎに、「濱風」と「清霜」がマニラ湾のキャビテ港に相次いで入港すると、「武蔵」約七〇名、「濱風」九名、「清霜」三〇名の重症者がマニラ海軍病院分院に移送された。その後、二隻の駆逐艦はマニラ湾内に浮かぶコレヒドール島の北桟橋に、約一三〇〇名の元「武蔵」乗員を降ろした。
乗組員たちが収容された、コレヒドール島にあった米軍のマイルロング兵舎
乗員の被害をまとめると、ブルネイ湾出撃時に二三九九名だった将兵のうち、戦死者二四八名、行方不明者七七五名の合計一〇二三名の死亡者を出し、生存者は加藤副長以下一三七六名だった。生き残りの将兵たちは、米軍砲兵隊が使用していた廃墟同様の兵舎に収容された。彼らは寝具も被服も食糧もろくに支給されない劣悪な環境で、新たな配属先を待つ日々を過ごすことになる。
十一月八日以降、加藤副長以下の士官約五〇名が、航空便で内地に帰還した。また同月十一日には村上三郎軍医長と看護長、移動可能な傷病者など約三〇名が病院船「氷川丸」で、十二月十五日には細野清士軍医中尉が病院船「高砂丸」でマニラ港を発った。
准士官以下の移動も開始された。しかし、全員が内地に帰れるわけではない。帰還組は半数近い約六二〇名で、残り六九七名はルソン島防衛要員として残留させられた。
十一月二十三日午前八時、帰還組第一陣の四二〇名を乗せた特設輸送船「さんとす丸」(一六一二名乗船)は、哨戒艇二隻と駆潜艇一隻とともにマニラ港を出港すると、内地を目指して南支那海を北上した。
同月二十五日、「さんとす丸」はルソン島と台湾の間にあるバシー海峡を横断していた。午前一時二十二分、「第三十八号哨戒艇」から爆発音と同時に火柱が上がった。米潜水艦からの雷撃は「さんとす丸」にも向けられて、右舷中央部に二本の魚雷が命中した。約七分後に「さんとす丸」は、船首を高く上げながら右にねじれるようにして、船尾から沈んだ。
海に投げ出された乗船者の誰もが、強い海流と冷たい海水に苦しめられた。そのためにカッターや筏、浮遊物に摑まれなかった者のほとんどが溺死した。
元「武蔵」乗員たちの救助が開始されたのは、沈没から十一時間以上が経過した午後二時頃からだった。随伴した哨戒艇や駆潜艇、付近を航行中だった小型貨物船などに救助された約一二〇名は、台湾南部に所在する高雄海兵団に収容された。十二月中旬、生還者の約半数六〇名が貨客船で内地に生還し、残り半数は終戦の翌年に復員した。
十二月一日、コレヒドール島に残留していた内地帰還組第二陣約二〇〇名が便乗した空母「隼鷹」は、駆逐艦三隻を伴ってマニラ港を発った。同月九日午前一時、長崎半島の野母岬の沖合に達した時、米潜水艦の魚雷一本を右舷集部に受けた「隼鷹」は、同日午前十一時に自力で佐世保軍港に入港できた。
第七章 フィリピン方面残留組の運命
コレヒドール島に残留させられた七〇〇名のその後は、過酷の一言に尽きる。彼らは米軍のルソン島来攻に備えて、マニラ地区、コレヒドール島方面地区、クラークフィールド地区に配備された。
昭和二十(一九四五)年二月三日以降、マニラ地区の防備に就いた約二〇〇名は、米軍との熾烈な市街戦を戦い、三月三日のマニラ陥落までに半数以上を喪った。また、マニラ湾口防衛部隊に編入された一二一名は、二月十六日以降にコレヒドール島と周辺の小島(カラバオ、カバロ、エル・フラレイ)で戦い、生き残れたのは一八名だけだった。
クラーク地区の防備に就いた約四〇〇名は、一月十日以降から終戦までに約三八〇余名が死亡している。戦死をまぬがれた十数名は捕虜生活を経たのち、昭和二十一年一月末になって横須賀に帰着した。
マニラ周辺の戦闘に生き残った者たちのほとんどは、米軍やフィリピン人ゲリラの追及を逃れて東部山岳地帯に撤退し、終戦まで自給自足の飢餓生活を強いられた。その結果、この方面で終戦まで生き残れたのは、五名しか確認できない。彼らは二十年末から翌年十月にかけて、順次帰国を果たした。
いわゆる「ルソン決戦」に投入された「武蔵」残留者六九七名のうち、戦死あるいは戦病死した将兵六四一名、生還者はわずかに五六名、死亡率は実に九二パーセントだった。
結局、ブルネイ湾出撃時に二三九九名だった「武蔵」乗員は、戦闘や漂流、輸送船の沈没、レイテ島での陸上戦闘を経た末に、約四五〇名が故国の土を踏むことができた。
軍艦武蔵会