軍艦武藏会のあゆみ
戦争が終わって六年が経過した昭和二十六年十月二十四日、僅か十名にも満たない「武藏」航海科員を主体にした元乗組員が、靖國神社に昇殿参拝を行いました。軍艦武蔵会はこの時の昇殿参拝を会の始まりと位置付けています。
また、「武藏」沈没後、台湾の高雄警備隊に収容された元乗員の会である「浜田会」が昭和三十一年三月十一日に第一回目の会合を開くなど、戦後十年を境に慰霊活動はその一歩を踏み出したのです
これらの有志が中心となり、ご遺族及び生存者の消息を確認するため厚生省、復員局等に足繁く通って情報を集め、その結果、慰霊祭の参加者は年を追うごとに増えていきました。
そして、昭和三十八年十月二十四日、二代目副長の加藤憲吉元大佐を会長に、二代目艦長古村啓蔵元少将と三代目艦長朝倉豊次(ぶんじ)元少将を顧問に推戴して『軍艦武藏会』が正式に発足しました。
また、この発足の席上、「武藏」戦没二十周年忌を迎える翌三十九年十月二十四日に靖国神社にて「軍艦武藏戦没者慰霊祭」と「軍艦武藏を偲ぶ会」を開催することに決まりました。
当時の「軍艦武藏会」中心メンバー(前列中央が加藤憲吉元大佐、写真は第一回慰霊祭直後のもの)
しかし、当時開催中であった東京オリンピック期間を避け、一ヶ月後の昭和三十九年十一月二十四日に挙行される運びとなり、当日はご遺族と元乗組員約千三百名が靖國神社に参集しました。
慰霊祭は、警視庁音楽隊(当初は海上自衛隊にお願いしたが、世論を考慮して戦友のつてで警視庁に協力を仰いだ経緯があった。)の奏楽の中で厳粛に行われ、栗田健男元中将(第二艦隊司令長官)と小柳富次元少将(第二艦隊参謀長)も参列されました。
引き続き大妻女子大学の大妻講堂にて「軍艦武藏を偲ぶ会」が行われ、来賓として小柳元少将、「武藏」建造に貢献された牧野茂元造船大佐をお迎えし、海軍軍楽隊の伝統を引き継ぐ消防庁音楽隊が出演するなど、非常に大きな慰霊祭となりました。爾来、軍艦武藏会は毎年十月二十四日に慰霊祭を行うことになり、現在も続けられています。
祭文を奏上する加藤憲吉初代会長(奥に警視庁音楽隊の姿が見える)
消防庁音楽隊による演奏
また、「武藏」の乗組員は艦籍が横須賀鎮守府所属であったので、関東・東北・北海道出身者が乗り組んでいました。そのため、北海道から甲信越までの範囲に十一の支部を設立して、それぞれ独自の慰霊活動を行いました。この他、異色な支部としては「警視庁特別武藏会」があります。これは警察官として奉職している「武藏」の元乗組員一〇余名が、「武藏」に乗艦経験のある元警視総監の土田國保氏を中心に結成したものでした。
昭和四十四年十一月二十四日(十月は靖国神社百年祭のため延期)、軍艦武藏戦没二十五周年記念事業として靖国神社に「武藏慰霊顕彰碑」と「主砲徹甲弾」を奉納し、約千名の会員が出席して除幕式が行われました。軍艦武藏の艦型は、武藏を建造した三菱重工業に依頼し、当日は古賀繁一副社長が出席されました。この造立費のために元乗組員やご遺族からの寄附金は七百四十余万円に及び、永代供養をすることが出来ました。
顕彰碑と徹甲弾
除幕式に参列された古村啓蔵二代目艦長(左から二人目)
昭和四十六年四月、三井商船の「さくら丸」に乗船し、沈没地点であるシブヤン海と元乗組員が多数乗船戦没した「さんとす丸」の沈んだバシー海峡において加藤会長以下約二十名の会員のよる洋上慰霊祭が行われました。この慰霊事業では、「さくら丸」がマニラに在泊している時間を利用してコレヒドール島に上陸し、「武藏乗員集結の地」という碑が建てられました。
武藏沈没時に救助された生存者のうち約半数が陸戦隊として苛烈な戦闘で倒れていったフィリピンでの慰霊活動は、その後、武藏会の重要な慰霊活動となりました。
コレヒドール島に建つ「武藏乗員集結之地」碑
昭和四十九年十月二十四日、「軍艦武藏戦没三十周年」の慰霊祭を靖国神社で行った際に、「かつて武藏の乗組員であった生存者の戦記、想い出の手記等を集録して後世に遺し、謹んで英霊に捧げ御遺族を慰め世界の平和を祈念する」という趣旨の下、三十周年記念事業として記念誌を編纂することに決まり、昭和五十年六月に『嗚呼戦艦武藏』を、さらに五十九年八月に『続嗚呼戦艦武藏』が会員に配布されました。
昭和五十四年十月二十四日、「武藏戦没三十五周年記念事業」として、フィリピン戦方面戦跡における現地慰霊祭の実施が決定しました。
そして一年後の五十五年十月二十四日、加藤会長を団長に、猪口繁平艦長の奥様嘉子さんを副団長に推戴した二三九名からなる慰霊団は、空路フィリピン・マニラに飛びました。その後マニラ湾口に浮かぶフラレイ島(軍艦島)、カバロ島、コレヒドール島、「武藏」終焉の地シブヤン海、クラーク・マバラカット地区、マッキンレー、カリラヤ、比島寺などを訪ねて慰霊を重ねました。
コレヒドール島での慰霊祭
クラーク・マバラカット地区での慰霊祭
比島寺はフィリピンにある唯一の日本寺院です。境内には「軍艦武藏比島方面戦没者之碑」が建てられ、参加者はそれぞれ持ち寄った御供物をお供えし、慰霊祭が執り行われました。
昭和五十七年二月十三日、軍艦武藏誕生の地である長崎三菱造船所にて加藤会長以下、会員による慰霊祭が開催されました。
平成三年八月十六日には、手塚正己氏による映画『軍艦武藏』が製作され、武藏会もこれに協力し、ドキュメンタリー映画として現在でも高い評価を得ています。
そして、平成二十七年三月二日、マイクロソフト創業者のポール・アレン氏が率いる探索チームが、シブヤン海で軍艦武藏を発見するに至りました。
平成二十八年十月二十四日には、NHKの取材のため来日されたシブヤン海々戦で武藏と戦った元米軍パイロット、Robert Freligh氏と御令嬢のPankow Freligh氏を招待して慰霊祭が行われました。
武蔵元乗組員とFreligh両氏
軍艦武藏会では、元乗組員やご遺族も少なくなった現在でも、会員・有志会員によって慰霊活動が綿々と続けられています。
今後も、戦没者のご冥福を祈る元乗組員やご遺族の思いを受け継ぎ、戦争を風化させないために、二度と同じ悲劇を繰り返さないために活動を続けていく所存です。
※あゆみを書くにあたって、ご協力いただいた武藏会事務局、宇田川特別会員に感謝申し上げます。
また、慰霊祭の写真の多くは元乗組員である黒澤啓氏の写真を使用させていただきました。厚く御礼申し上げます。
軍艦武藏会広報
歴代会長
初代:加藤憲吉(昭和39年10月24日〜平成元年3月26日)
二代:浅見和平(平成元年〜平成11年)
三代:武井松太郎(平成11年〜平成21年)
四代:五木田勝(平成21年〜平成24年)
五代:中島茂(平成25年〜)
年表
・1963年10月24日、発足。
・1964年11月23日、靖国神社にて記念植樹を行う。
・1964年11月24日、第一回慰霊祭を挙行。
・1965年4月、シブヤン海を通過する南極観測船「ふじ」に花輪を送り、洋上慰霊を依頼。
・1965年8月、第一回慰霊祭記念アルバムを発刊配布。
・1966年5月、東郷神社にて桜橘を記念植樹し、記念碑を造立。
・1966年7月、海上自衛隊の練習艦隊がシブヤン海とバシー海峡と通過する際、洋上慰霊を依頼。
・1969年11月24日、「軍艦武藏慰霊顕彰碑」と「主砲徹甲弾」を靖国神社へ奉納。
・1970年5月、25周年慰霊祭記念アルバムを発行。
・1971年4月、三井商船「さくら丸」にて第一回洋上慰霊祭。
・1973年11月、加藤会長以下26名がフィリピン戦跡訪問団に参加し、現地慰霊を行う。
・1975年6月、『嗚呼戦艦武藏』を発刊。
・1979年10月24日〜30日、フィリピン方面慰霊祭を挙行し、記念アルバムを発行。
・1982年2月13日、長崎三菱造船所にて慰霊祭を行う。
・1984年8月、『続嗚呼戦艦武藏』を発刊。
・1989年3月26日、加藤初代会長逝去。
・2015年3月2日、軍艦武藏発見。
・2016年10月24日、慰霊祭にRobert Freligh氏を招待。
・2020年1月28日、公式ホームページを開設。