元乗組員である土田國保氏の手記と回想
このページでは、短期現役(通称「短現」)主計科士官として「武蔵」に乗り組まれ、戦後は警視総監になられた土田國保氏について、その資料を紹介したいと思います。
土田國保
東京帝国大学法学部と卒業後、内務省に入省。昭和18(1943)年9月30日、短期現役主計科士官第十期補修学生として海軍経理学校品川分校に入校。昭和19(1944)年3月1日卒業、任海軍主計中尉、補「武蔵」乗組。同年9月3日「武蔵」退鑑後、経理学校第十二期見習尉官隊、第九・十分隊士、経理学校主計長附兼主計科分隊士、横須賀鎮守府附軍法会議検察官職務代行を務め、最終階級は海軍主計大尉。戦後、警視庁に入庁。警務部長在職中、新左翼によって自宅に送られた爆弾で妻を亡くす。第七十代警視総監、第四代防衛大学校長を務める。平成11(1999)年7月4日、77歳で死去。
土田氏は、昭和39(1964)年の「第一回軍艦武藏戦没者慰霊祭」にて警視庁音楽隊を派遣していただくなど、軍艦武藏会の活動に大きく協力していただいた方です。(警視庁音楽隊については
「武蔵会のあゆみ」をご覧ください)
土田氏は昭和19年3月に「武藏」に乗り組んだ当時のことを「武藏戦記」として書き残されています。3月7日にサイパン経由パラオ行の二式大艇に、連合艦隊参謀副長の小林謙五海軍少将と共に乗り込んで「武藏」に着任した所から始まるこの「戦記」は、当時の「武藏」の様子や主計科の仕事などが、ユーモラスのある文章で綴られています。ぜひご覧になって、帝国海軍の雰囲気を感じてください。(引用元は手塚正己『軍艦武藏』上、太田出版、2015年、260〜264頁。)
<武藏戦記>
[前略]早イ。上陸場ヲ離レテ島ノ岬ヲ廻ッテイク。イヨイヨ着任ト思ウト流石ニ一寸胸騒ギヲ感ズル。武藏ハト見渡スガナカナカ見当タラヌ。宮崎清文主計中尉ノ言デハ図体ガ大キク煙突ガ一本デ一寸不恰好ダソウダガ……ヤガテ曇ッタ沖合ニ大キナ艦影が見エテキタ。近ヅクニツレテ物凄イ巨艦デアル。長門ヤ陸奥ノヨウニ甲板ガ平ラデナク、重巡ノヨウニウネッテイル。問題ノ大砲ガ判然ト目に映ル、巨砲ダ。イカメシイ艦橋。一本煙突、ソシテ後部ノマストガ、グット後ニ寝テイル。艇ハ艦尾ヲ大キク左へ廻ッテ山ノ様ナ舷側ニ近ヅクト「取次」ガスルスルト舷梯ヲ降リテクルノガ見エル。「達着」。敬礼ノ中ヲ小林副長ガユッタリト艇ヲ降リテユカレル。次ハ私、軍刀一本ヲ持ッテ舷梯ヲ小走リニ昇ル。高イ、高イ。中途ニ踊リ場ガツクラレテアル。舷門番兵ノ捧銃ニ答礼シテ、ココニ武藏艦上第一歩ヲ印シタ。舷門ヲ昇ッテ先ズ当直将校二……ト教エラレタ通リ其ノ前ニ出テ行ク。舷門ノアル所ハ前部ノ二番砲塔ダ。ソコニハ折椅子ヲ並ベテ偉ソウナ士官ガ二、三人腰掛ケテイル。当直将校ハ防暑服ニ白地ニ墨デ「当直将校」ト書イタ腕章ヲ巻キ剣ハ吊ラズ双眼鏡ヲ掛ケテイル。西岡大尉トイフ人ダト後デ聞イタ。痩セテイル。「土田主計中尉只今着任致シマシタ」ト敬礼ト共ニ申告。ヤヤ固クナッテ名刺ガスグ出テコナイ。名刺ヲ渡スト当直将校自ラ副長ノトコニ案内シテ呉レル。
副長ハスグ反対舷ノ折椅子ダ。太ッタ背ノ低イ丸顔ノ人デ頭マデ丸イ。目ノ大キナ親切ソウデ、ソシテ細カソウナ人柄ノコトガ判ル。加藤憲吉大佐デアル。
「何日附ノ発令カ」ト訊カレルカラ「三月一日附」ト答エルト首ヲヒネッテ居ラレル。未ダ転勤ノ報ヲ受ケテ居ラレヌラシイ。艦長ハ他所ニ行カレタカラ挨拶ハ後ニスルカラ、ト云ハレテ、奥野恒夫[海経32期]トイウ主計中尉ニ紹介サレル。奥野中尉ハコレ又丸顔デ眼鏡、非常ニ人ノ好サソウナ感ジダ。
直チニ「ガンルーム」ニ案内サレル。中央ラッタルヲ降リテ右ノ突キ当リダ。赤イ垂幕ノ中ハ相当広イ。「ケプガン」ノ田結少尉ニ紹介サレル。田結少尉ハ田結穣中将ノ一人息子デ東京府立一中、兵学校ノトップノ由。均整ノトレタ身体ニ端正ナ服装ガ如何ニモ海軍士官ラシイ。オトナシソウデナカナカ厳シイソウダ。
士官室、二次室ト案内サレ、赤イ垂幕ヲハネノケルト中ノ人が一斉ニ注目スル。松元雄蔵主計長[海機6期・主少佐]ニ挨拶ノ時ハソノ容貌ニ惹カレタ。ノッソリシテイル。
ソノウチ食事ニナッタラ一次室[ガンルーム]モ大勢ニナッタ。「聯艦司[聯合艦隊司令部]」ガ一緒ニ居ルカラダト云ウ。改メテ紹介ガアル。
食器ガ白イ瀬戸物ヅクメニハ一寸面食ッタ。又料理ガ極メテアッサリシテイル。堅苦シイ食事ガ終ルトシバラクシテ副直将校ガ入ッテ来ル。副長ガオ呼ビダト云フノデツイテユクト、舷門ノ所デ雨衣ヲ着タガッシリトシタ大佐ガ副長ト何カ話シテ居ラレル。副長ガ手招キヲスルノデ行クト、朝倉豊次艦長ダ。挨拶ヲスルト大キナ眼デ此方ヲ見ラレタ。
劈頭一番、「君ハ主計中尉ダガ学校ヲ終ッテ出テ来タバカリナノダカラ候補生ト思ッテ本艦ニ居ル候補生ニワカラヌ所ハヨク指導シテ貰エ。二、三ヶ月経ッタラ今度ハ小艦艇ニ乗ルノダカラ、出来ルダケ速カニ実務ヲ充分ニ覚エルコトダ、イイカネ」
日没時ニナッタラシク軍艦旗卸シ方ノ号令ヲ聞ク。着任ノ時ノ服装ノママ皆ニツイテ後部ニ行ク。広イ甲板ダ。後部右舷ニ准士官以上ガ集ッテイル。皆ガ一斉ニ敬礼スルノデ振リ返ッテ見ルト古賀長官、福留参謀長ソシテ小林参謀副長ガ他ノ幕僚ヲ従ヘテ後カラ来ラレタ。軍艦旗降下ハ敬礼ノ裡二厳カニ行ハレル。終ッテ長官一行ガ帰ラレルト加藤副長ガ当直将校ニ向ッテ「直チニ総員集合、場所ハ三番砲塔左舷」ト気ゼハシソウニ命ジテ居ラレル。カネテ聞イテ居タヨウニ、ココデ私ノ着任披露ガ行ハレルノダ。副長ニツイテ行ク。三番砲塔左舷ニハ黒山ノ否、防暑服ダカラ褐色ノ山ノヨウニ兵隊ガ集合スル。
整備ヲ当直将校ガ報告スルト「オスタップ」ヲ引ックリカヘシタ特設台ニ副長ガ上ラレル。「一同ニ披露スル。土田主計中尉、本艦乗組ヲ命ゼラレテ本日着任、第二十一分隊士」ト区切ルヨウニ云ハレタ後デ、型通リ副長ニ一礼シ壇上ニ登ッテ一同ニ敬礼スル。冬ノ内地ノ訓練デ霜焼ニ腫レ上ッタ両手ヲ白手袋デ誤魔化シテイルガ手ハ物凄ク大キイ。
披露ガ終ルト奥野中尉ニ伴ハレテガンルームニ帰ル。奥野中尉ハ本艦ノ庶務主任ダ。後任ガ来タカラ間モナク転勤ニナリマスト云フ。非常ニ親切ニ種々教ヘテ貰フ。防暑服ハ貸与品ダガ持ッテ来テ呉レタノデ寝室デ着替エテ見ル。着付ハ始メテダカラ半袖半ズボンガ何カギコチナイ。気ガツイテ見ルト半袖ノ上衣ヲ半ズボンノ内側ニタグリ込マズニ歩イテイタ。
中山勝平掌経理長、高橋清掌衣糧長等ニ紹介サレル。イズレモ優秀ナ人材バカリダ。高橋少尉曰ク「主計兵ハ凡ユル兵種ノ中デ最モ精神的ニ優レ意志ノ強固ナ者デナレケバ勤マリマセン」
ヤガテ巡検ニ随行スベク士官室前ニ出テ行ク。巡検ハ副長ガ廻ラレル。野村甲板士官ニ聞クト廻リ方ハ四通リアル由。巡検ガ始マル。上リ下リ左へ右へ艦内ヲ廻ル速サハ目ガ廻ル位ダ。ラッタルノ上リ下リモ灯火管制ノタメ真暗ダカラ、グズグズシテイルト置キ去リニサレル。一番先ニ気ガツイタノハ厠ノ点検ノ厳重ナコトダケデアッタ。イツノ間ニカ露天甲板ニ出ル。後部ニ繋イデアル内火艇カラモ「異状ナシ」ノ報告ガ上ッテキテ副長ハ一ツーツ「ハイ」「ハイ」ト答エテ行カレル。巡検が終ル。
夜中ニ何回モ目が覚メテ背筋ニ汗ガ伝ハルノニ南方戦線ヲ実感トシテ噛ミシメナガラ、ウトウトト暁ヲ迎エタ。
また、土田氏は短現十期の同期会誌にも「武藏」のことを書かれています。「武藏戦記」を補う部分がありますので以下に引用します。(引用元は海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会『滄溟』非売品、1983年、151〜156頁。)。
<軍艦「武蔵」の思い出>
ー私の手許に一冊の古い大学ノートが残っている。題して「武蔵戦記」。昭和十九年三月七日、パラオで乗艦、九月三日リンガ泊地で退艦した軍艦「武蔵」庶務主任兼主計科分隊士時代の思い出の記である。終戦から程遠くない或る日、まだ記憶の新しい間に書き残しておこうと筆を執ったものだが、中途半端に終ってしまって、そのまま公表すべくもない。その中で、やや纏まっている二〜三の部分を摘録して、往事を偲ぶよすがとしたいー
着任
[土田日記とほぼ同じ内容であるので省略する]
烹炊員
総員起しの号令は、主計科烹炊員には適用せず、又午睡も休養もない。
午前一時ー朝直の烹炊員は、早くも米麦を容れた大ザルを担ぎはじめる。蒸気の濛々と立てこもる烹炊所の熱気は、既に摂氏五十度。三〜四馬力の冷房位では何の用もなさぬ。越中褌に前垂一つ、裸足で走り廻る兵員の身体は、滝のような汗にベトベト光っている。 眠い、重い、熱い、そして下らない、地味すぎると考え及ぶ時、およそ我こそは主計兵なり、烹炊員なりという誇が、若い兵隊達に持てるかどうか。
高橋清掌衣糧長の口癖に日く、
「主計兵ハアラユル兵科ノ中デ、最モ精神的優レ、意思ノ強固ナ者デナケレバ勤マリマセン」。
熱地の艦内勤務中、辛いのは先ず主計科、機関科である。涼しい艦橋、露天機銃、高角砲台、ハタ甲板、張りのある号令、華やかな戦闘場面は、烹炊員は拝みたくとも見られない。舷窓を閉めた熱気と臭気の迫る厨房。重い米袋を、野菜籠を背負い、総員起しの頃には、下甲板の糧食小出庫から担ぎ上げてくる労苦。
糧食搭載。上ではノドカナ起重機の音。「ユルメー、引ケー、止メー」で、引いたりゆるめたりしている両舷直は生易しい。ガラガラと滑車が軋みながら袋が降ろされてくる最下甲板の米麦倉庫作業場は、濛々たる埃と息もつけない蒸し暑さ。身動き一つ自由にならない。区切られた倉庫内での積付作業。
最大非番直の日といえども、新一等兵は、全身に吹き出た汗疣の手当をする暇さえない。上の者が目を放していなければ午睡の時もない。積漁作業、倉庫作業の雑業は、艦内五十余箇所が糧食倉庫となっている巨艦「武蔵」では、尽きることなく続く。華やかな勤めもなく、不眠不休の彼等若き烹炊員達は、夜の甲板整列に一入気合を入れられて、汗をかきながら、アンペラ一枚の上に死んだように眠る。
気の弱い者には勤まらぬのが主計科、機関科である。然も、古参の下士官、兵長は、口々に云うのだ。
「我々ノ新兵頃トハ比べモノニナラナイ。生易シイ事ヲ云ッテ甘ヤカスノハ以テノ外デスヨ。第一、進級ノ早イコトトイッタラ……」。
弱卒は兎角間違いが多い。パラオでは、主計科一名、フラフラと陸地に泳ぎついて昼寝。三日二晩、食うものもなく。遂に「愛宕」の水雷艇に拾はれた。タウイタウイで又一件。 機関兵で、「扶桑」の内火艇に拾はれた。七月、呉からリンガ泊地に回航途中、南支那海で、又機関科一等兵が行方不明。備付のブイが一つ消えていた。そして、リンガ泊地で又一件。主計科が懐中電灯を持ち出すと、「又脱走か」と云はれる始末。主計科だけで艦内を探すこと四日。遂に総員集合、時の先任将校柚木[重徳]大佐(砲術長、 故人)が、「気ノ毒ナ彼ヲ早ク探ッ出セ」。総員集合の効果たちまちにして現はれ、十分間で発見された。場所は、外側短艇庫奥の重油樽の内側、失踪経歴二回目の一等主計兵であった。
それでも兵隊達は、よく辛抱し、奮闘した。そして……「武蔵」の沈む時には、三塚先任下士官、江畑烹炊員長その他多くの下士官や古参兵長が、部下を救出すべく命掛けでその根性を発揮し、自らも戦死して行ったのである。
映写
甲板士官「オイ、映写場用意、前甲板。掛ケテ呉レ」
副直将校「当直将校、映写場用意掛ケマス」
副長「オイオイ、未ダ早過ギルジャナイカ」
娯楽の乏しい艦内の唯一の楽しみは映写である。甲板士官は、場内設備の担当者として、早く号令を掛けて貰いたいのに、副長がニコニコ笑いながら、水を入れているのも一風景。
内地から船が入る。司令部から順番にフイルムが廻ってくる。取りに行く甲板下士官が、一人で定期を出して貰って、嬉しそうな顔で帰ってくる。
「映写場用意、前甲板」
早くも天幕が張られ、椅子が持出され、軍艦旗が降下すれば、もう一杯に詰めかけてくる。
「総員―映写見学ノ位置にー整列」
の頃には、既に総員集合完了である。煙草の火がポツンポツンと赤い。
「気ヲツケ」
艦長が副長を伴って臨場、直ちに、
「映写始メェー」
何も彼も号令である。
日本ニュース、漫画、劇。学生時代、下らぬもの、詰らぬものと思った慰問映画が、ひとたび慰問される側に立つと、無条件に面白くなる。故郷を偲ぶもの、故国のものならば何でも歓迎される。要するに何でもよいのだ。
映写終了。士官達が立つ迄皆そのまま。
「分レ。映写場用意要具収メ」
星空が綺麗。故国の夢をのせてまたたく。
初陣
時は昭和十九年三月二十九日の昼下り。灼熱の太陽は中天に輝き、鋼鉄も灼ける「武蔵」の戦闘艦橋は、シーンと静まり返っている。
「艦長!一五〇〇ニナリマシタ!」
艦長伝令兼従兵長倉持辰之助兵曹が張りのある声をあげる。
「出港用意!」
間髪を容れない朝倉艦長の号令。
勇ましい出港用意のラッパが鳴る。
「両舷前進微速、面舵」
一体こんな巨大な代物が動くのだろうか、排水量七万一千百トン。乗員二千七百名。パラオ環礁に根を生やしたように座り込んでいる、 後方から見るとガマガエル(蟇)のような巨艦。
操艦の号令が続く。見張が叫ぶ。僚艦から信号が来る。艦内電話が鳴る。艦は漸くソロソロと動き出した。
狭いアルミズ水道を巧みな操艦で通過、外洋に出る。
「カンメイ、カンサク、ケースー、フタマル、ケー」
目の前の小柄な、産毛のようなチョビヒゲを生やした兵曹が、だしぬけに叫んだ。双眼鏡を手にしながら、背を伸ばしながら号令を伝達している姿は、満身闘魂そのもの。
「オー旗半揚」
「オー旗一杯」
「オロセー」
やれやれ、一体何を怒鳴っているのか。これで戦闘でも始まったら、どうしたら記録が取れるのか。
やがて、太陽は次第に水平線の彼方に近づく。沈みゆく夕陽を追うように進む一群の艦影。
突如、左舷三千米に併進している護衛駆逐艦が、急角度の面舵を取った。
「雷跡、左九十度!」
大声で見張が叫ぶ。
「面舵一杯!前進一杯!アール一杯!」
風の中を艦長の号令が千切れた。
転舵した駆逐艦の艦首あたりから此方に向けてぐんぐんと突っ込んでくる三條の白線!
「警戒!」
チョビヒゲの兵曹が、壁のラッパをもぎ取るようにして、マイクに向って吹く。
一本、二本、やり過ごしてシメタと思ったその瞬間、
「魚雷ハ只今艦底通過!」
の報告と同時に
「ドドーン」
と三本目が艦首に命中、飛び上るような衝撃。火焰と煙と巨大な水柱がドッと艦橋に襲いかかった。
大穴を開けられて呉に回航。被害は、戦死七名。浸水量二千百トン。副砲揚弾機故障。
しかし速力は二十八ノットから二十二ノットに落ちたほかは、艦首が少々沈んだ位であった。呉の四号ドックで、七名の遺体を収容し、艦内葬。当時、民間では虎の子の、"とらや"の棒状の羊羹二千余個が海水に浸って廃棄処分となった。
◯
当時の艦長は終戦後故人となられた。倉持艦長伝令、チョビヒゲの和田昇兵曹は、昭和三十九年の晩秋、靖国神社での「第一回軍艦武蔵慰霊祭」に、警視庁警察官となって私の前に現はれた。嬉しい驚きの再会であった。
軍艦武蔵会