軍艦「武蔵」と乗組員たちの航跡
第一章 「武蔵」建造
昭和十一(一九三六)年十二月にワシントン海軍軍縮条約が失効することを見据えた海軍は、「昭和十二年度海軍補充計画」を策定し、大和型戦艦を含む艦艇六六隻、航空隊一四隊の建造増設を五ヶ年に亘って整備することを決定した。その中でも、計画名「A140-F6」の大和型戦艦は、基準排水量六万四〇〇〇トン、速力二七ノット、主要兵装備として四六センチ主砲九門、一五・五センチ副砲十二門、一二・七ミリ高角砲十二門、偵察機と観測機六機を搭載する世界最大最強の戦艦とされた。
昭和九(一九三四)年頃より海軍省内の艦政本部が担当し、第四部(造船部門)部員であった福田啓二海軍造船大佐を設計責任者、海軍造船の大家で当時東京帝国大学総長になっていた平賀譲予備役海軍造船中将を相談役に迎え、度重なる海軍部内からの要求に応えつつ、昭和十二(一九三七)年三月に完成した。
「昭和十二年度海軍補充計画」は、昭和十一(一九三六)年十二月二十六日より開かれた第七十回帝国議会で予算の承認を受け、海軍では「第三次補充計画」に当たるため、省略して「③計画」としていた。大和型戦艦は呉海軍工廠で建造する艦を「第一号艦」(後の「大和」)、三菱重工業で建造される艦を「第二号艦」(後の「武蔵」)とという秘匿名が与えられた。建造を依頼された三菱重工長崎造船所はこの年の十月十日に六二五三万八五五〇円の見積書を提出した。この見積もりを元に同年十二月二十六日には上田宗重艦政本部長から正式に通達があり、昭和十三(一九三八)年二月十日に村上春一海軍経理局長と三菱重工の間で契約が締結され、「第二号艦」は同年三月二十九日より三菱重工業長崎造船所で起工される運びとなった。(最終的な見積は五二六五万円、追加工事などを行った結果、最終額は六四九〇万円となった。昭和二年の経済指数から換算すると、現代では四一二億七六四〇万円ほど)
海軍では基本的に、同じ型の艦(同型艦)を別々の造船所で、同時に二隻建造することで、同一の設計図を基に、同じ材料が使用される。また二箇所の造船所職員が建造のための特殊技術や技能を共有でき、建造から艤装までの期間、問題点や改良点などの検討対処が迅速に行われ、これによって経費を抑え、工期の期間短縮が可能であった。また、同型艦は基本的な仕様は同じであるため、船体の修理や保全はもとより、大和型二隻が加わっての艦隊運動なども、円滑に行える利点があった。
起工より九四六日目の昭和十五(一九四〇)年十一月一日、佐世保鎮守府海兵団からの一二〇〇名に加えて、憲兵・警察の六〇〇名が警備に当たり、長崎市内に「防空演習」が発令されて市民の外出が制限される厳戒態勢の中、「第二号艦」の進水式が挙行された。伏見宮博恭軍令部総長宮臨席の下、及川古志郎海軍大臣が進水命名書を朗読し、「第二号艦」は「武蔵」と命名されたが、機密保持のため竣工するまでは従来通り「第二号艦」と呼称することに決定された。
画像は、海軍部内に「軍艦武蔵」の命名を知らせるものであるが、公表された時期が竣工後であったため、海軍大臣が及川古志郎ではなく嶋田繁太郎となっている。ー「達第二百四十一号」『昭和15年1月〜12月 達』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12070107900、528頁。
同年十一月七日、「第二号艦」は日本郵船の客船「春日丸」(後の改造空母「大鷹」)に隠されながら造船所内の向島岸壁に移され、艦上構造物や艦内諸設備の設置、動力機械や航海機器の搭載などを行う艤装工事が開始された。昭和十六(一九四一)年七月一日には推進器取付のために佐世保海軍工廠の第七ドックに入り自力航行が可能となった。その後、長崎に戻って艤装が続けられたが、九月十日には有馬馨艤装員長以下、艤装員(就役後はそのまま乗組員となる)の発令が行われた。艤装員たちは機密上の観点から艤装員長の名前をとった「長崎造船所内有馬事務所」所属とされ、人員の出入りは厳しく制限されていた。
辞令上では佐世保鎮守府附として発令されている。ー「昭和十六年九月十日」『昭和16年2月8日 昭和16年9月11日 海軍辞令公報(部内限)』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13072110000、559頁。
昭和十六(一九四一)年十二月八日、主砲の搭載を終えた「第二号艦」であったが、奇しくもこの日、日本海軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発した。開戦を受けて造船所では九日より高角砲と機銃の急速整備を行い、二十五日には呉鎮守府工務部より防潜網が配置されるなど、一刻も早い完成が求められていた。また、昭和十七(一九四二)年四月十八日、東京がドーリットル空襲を受けると、「二号艦」では対空人員若干名が艦内居住を開始し、五月七日には艤装員全員の艦内居住が始まった。
五月二十日、「第二号艦」は初めて自力で呉まで回航し、この時に操艦が三菱造船所の長妻英二船長から宮雄次郎航海長へと引き継がれた。呉海軍工廠の第四ドックに入り、最後の調整を行った後、六月五日に生起したミッドウェー海戦の四日後、九日にドックを出た「第二号艦」は十八日から二十六日まで伊予灘において、合計十三回の公試運転を実施した。その後、再度ドック入りして司令部設備を増築し、七月二十四日から三十日まで伊予灘で兵装関係の公試運転を経て、昭和十七(一九四二)年八月五日、一五九一日の月日を費やして遂に竣工した。
八月五日午前九時、「第二号艦」の引き渡し式は前甲板で挙行され、正式に三菱重工長崎造船所から海軍へ引き渡された。この日から「第二号艦」は「武蔵」になり、併せて有馬馨艤装員長は艦長となり、艤装員や艤装員附たちは正式に「武蔵」乗組員となった。そして、「武蔵」は横須賀鎮守府籍の軍艦として第一艦隊第一戦隊に編入され、日本海軍の戦艦として戦列に加わった。
『昭和17年7月〜9月 内令 3巻』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12070164400、1518頁。
「昭和十七年八月五日」『自昭和17年7月 至昭和17年10月 海軍辞令公報』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13072086500、645頁。
建造された「武蔵」は次のような性能を誇っていた。
・全長 263メートル
・最大幅 38.9メートル
・公試排水量 69,000トン
・基準排水量 64,000トン
・満載排水量 73,000トン
・最大速力 27ノット(時速約50キロ)
当時の世界海軍のどこを見渡しても、これほど巨大な軍艦は存在しなかった。また現在では戦艦を運用する国はなく、したがって「武蔵」と「大和」が世界最大の超弩級戦艦ということになる。主砲は四六センチ砲三連装を三基、計九門を搭載している。米海軍で一番大きなアイオワ級戦艦(基準排水量四八四二五トン)の主砲は、四〇・六センチと一回り小振りである。また主砲弾の重量を比較すると、大和型は一四六〇㎏で、これに対してアイオワ級は一二〇〇㎏と小さく、当然破壊力は劣る。
戦艦「アイオワ」
それでは「大和」型とアイオワ級の戦艦が、一対一で砲戦を演じたら結果はどうなるだろうか。大和型は砲弾の大きさに加えて、射程距離は約四万二〇〇〇メートルと、水平線の遥か彼方まで飛ばせる。一方のアイオワ級は約三万八〇〇〇メートルまでしか届かない。となると、勝敗はおのずと決してしまう。それでも仮にアイオワ級が射程内にまで踏み込んで、「大和」型に砲弾を命中させたとしよう。ところが、大和型船体の主要箇所には分厚いアーマー(装甲鈑)が張り巡らされているので、砲弾は貫通できずに跳ね返されてしまう。計算上では、本艦が搭載する四六センチ砲弾でなくては、「大和」型に致命傷を与えられない。
したがって「武蔵」乗員のほとんどは、「絶対不沈艦」だと信じて、来るべき海戦に臨んだのだった。
第二章 連合艦隊旗艦として
竣工した「武蔵」は瀬戸内海にて訓練を行い、その間に海軍兵学校を卒業した七〇期、七一期の初級士官訓練艦としての役割も務めていた。またこの間、「軍艦武藏会」初代会長となる加藤憲吉大佐が二代目の副長として着任している。そして「武蔵」は、昭和十八(一九四三)年一月十五日に連合艦隊へ編入されることが決定した。
二代目副長/「軍艦武藏会」初代会長 加藤憲吉海軍大佐
当時、連合艦隊の第一線本拠地は西太平洋カロリン諸島にあるトラック島(現在はチューク諸島)にあった。同島は第一次世界大戦終結後に日本の委任統治領となって以降、日本海軍の要港として整備されていた。「武藏」は同年一月十八日に広島県の呉を出港し、二十二日にトラック島へ到着した。
日本の委任統治領時代のトラック島
昭和十八(一九四三)年二月十一日、連合艦隊旗艦は「大和」から「武蔵」に変更となった。この日、山本五十六連合艦隊司令長官は「武蔵」に移乗すると、艦上に将旗を掲げた。これ以降、昭和十九(一九四四)年三月三十一日に旗艦の任を解かれるまでの約1年2ヶ月半、「武蔵」は旗艦として日本海軍のシンボルであり続け、太平洋戦争中に旗艦を務めた中で最長の記録となった。
1942年当時の連合艦隊司令部。右から5人目が山本五十六、その左は参謀長を務めた宇垣纏。
しかし、トラック島に停泊する「武蔵」は戦闘の機会に恵まれず、日だけが空しく経過していった。そして、昭和十八(一九四三)年四月十八日、前線視察に赴いた山本長官はブーゲンビル島上空で搭乗の一式陸攻を撃墜され、戦死を遂げた。(海軍甲事件)
長官の遺骨は二十三日に「武蔵」へ帰艦し、二十五日には後任の司令長官として古賀峯一大将が着任した。新長官の下での「武蔵」の最初の任務は山本元帥海軍大将の遺骨を日本へ届けることだった。五月十七日にトラック島を出発した「武蔵」以下一一隻の艦艇は二十二日に千葉県木更津沖に到着し、六月五日に山本元帥海軍大将の国葬が執り行われた。
1943年、「武蔵」後甲板で撮影された連合艦隊司令部。左から4人目が古賀峯一長官。長官の左側には福留繁参謀長、右側には小林謙五参謀副長が座っている。
国葬から四日後の九日、二代目艦長として古村啓蔵大佐が着任し、横須賀沖へと場所を移した「武蔵」に 昭和天皇の行幸が行われることが通達された。その結果、六月二十二日から「武蔵」では外部との接触を一切禁止し、加藤副長の指揮によって万全の準備が整えられた。六月二十四日午前十一時五分、 昭和天皇は右舷舷梯から「武蔵」に乗艦し、後部マストに天皇旗が掲げられた。
1943年6月24日、行幸時の記念写真。前列中央に 昭和天皇、左側に高松宮宣仁王が座られている。二列目右から8人目に古村艦長が写っている。
行幸を終えた「武蔵」は瀬戸内海で諸訓練を実施後、七月三十一日にトラック島へ向けて出港、八月五日に到着した。戦局は差し迫りつつあったが、十月十七日にブラウン島(現在のエニウェトク環礁)へ、二十三日にウェーク島へ警泊した以外はトラック島で訓練の日々が続いた。
十二月六日、トラック島にて三代目艦長の朝倉豊次大佐が着任し、「武蔵」は整備補給のために横須賀へと向かった。横須賀へ到着してから二日後の昭和十九(一九四四)年二月十七日、トラック島は米機動部隊の大空襲を受けて壊滅し、連合艦隊は根拠地をパラオへと移したため、「武蔵」も二十九日になってパラオに到着した。一ヶ月後の三月二十九日、敵空母部隊艦載機による空襲が近いと判断した連合艦隊司令部は、将旗を「武蔵」から陸上基地へと移した。と同時に、「武蔵」に対してパラオからの退避を命じた。「武蔵」が急遽パラオの環礁を抜けて外洋に出た時だった。水道出口で待ち受けていた米潜水艦「タニー」の雷撃を受けた。魚雷一本が艦首右舷の錨鎖庫に命中、七名の戦死者を出した。
第三章 日本海軍の壊滅と「武蔵」
昭和十九(一九四四)年二月三十日から三十一日にかけてパラオに来襲した米機動部隊による空襲のさなか、ダバオへ飛行機で移動していた古賀峯一長官は途中で消息を断ち、三十一日に殉職と認定され、元帥号が送られた。(海軍乙事件)
古賀長官の後任には豊田副武大将が選ばれたが、建軍以来、戦艦が担ってきた連合艦隊の旗艦は通信能力の高い軽巡洋艦「大淀」に変わった。一方、雷撃による損傷を受けた「武蔵」は呉に帰投し、修理と対空兵装の強化を受けることとなり、中部甲板両舷に二基備え付けられていた一五・五センチ副砲が外され、代わりに機銃と高角砲が増設された。また、電波探信儀(レーダー)の増設も行われ、航空攻撃に対する強化が図られた。
その後、機能の諸試験を終えた「武蔵」は、五月十一日、大分県佐伯湾を出港、沖縄県の中城湾を経由して、十六日にフィリピン南部のタウイタウイ泊地に到着した。
到着後の二十日、日本海軍はマリアナ諸島沖で米軍を迎え撃つ「あ号作戦」発動、二十七日にインドネシアのビアク島へ米軍が上陸すると、その支援のために「渾」作戦が発令された。六月十日、「武蔵」は第三次渾部隊へと編入されてタウイタウイを出撃したが、十二日にバチャン泊地に到着した時点で米軍がマリアナ諸島に来襲したことから作戦は中止となった。
六月十七日、栗田健男中将率いる第二艦隊第一戦隊(司令官:宇垣纏少将)に属する「武蔵」は、小沢治三郎中将率いる第三艦隊(参謀長:古村啓蔵少将)と共にマリアナ諸島、パラオ沖へと進撃、十九日から二十日にかけて米機動部隊との間で「マリアナ沖海戦」が繰り広げられた。「武蔵」はこの海戦で初めての実戦を経験し、主砲を発射したが、戦果は挙げられなかった。海戦の結果は、日本海軍の敗北に終わり、航空母艦「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」を喪失した。
「あ号作戦」終了後、瀬戸内海の柱島錨地にあった「武蔵」は、陸軍部隊を乗艦させると、七月十日にリンガ泊地へと向かった。振り返ると、これが「武蔵」にとっては日本との別れの日となった。
十六日、リンガ泊地に到着した「武蔵」は、輸送船に陸軍部隊の移動を終えると、「大和」以下の艦艇群に合流を果たした。以降、「武蔵」は連日のように猛訓練に明け暮れる日々を送った。
八月十五日、猪口敏平大佐(十月十五日・少将へ進級)が「武蔵」に四代目艦長として着任した。
ブルネイに停泊する第一遊撃部隊。手前から戦艦「長門」、重巡洋艦「高雄」、戦艦「大和」「武蔵」が並んでいる。
1944(昭和19)年10月22日、栗田健男中将率いる第一遊撃部隊はブルネイを出港、レイテ湾に向かって出撃した。23日早朝、パラワン島と南沙諸島の間にあるパラワン水道を抜ける途中、米潜水艦「ダーター」と「デイズ」の雷撃を受け、重巡洋艦「愛宕」「摩耶」が轟沈、「高雄」が大破した。旗艦であった「愛宕」から栗田中将以下司令部員は「大和」へ、「武蔵」は「摩耶」乗組員を収容した。
24日、パラワン水道を抜けてタブラス海峡に入った10時26分から米機動部隊の艦載機による攻撃があり、「シブヤン海海戦」が始まった。攻撃は15時30分まで第五次に亘って続き、「武蔵」は爆弾17発、魚雷20本以上を受けて航行不能に陥り、19時35分、急激に船体が左に大きく傾くと同時に、艦首から棹立ちになった格好で次第に海中に没していった。建造から2年2ヶ月余りの艦歴だった。猪口敏平艦長も「武蔵」と運命を共にした。
駆逐艦「濱風」水雷長の白石東平大尉が撮影した「武蔵」最期の写真。艦首部分が沈み込んでいるのがわかる。
夜の海に投げ出された乗員たちは、重油にまみれながら救助を待った。護衛の駆逐艦「濱風」と「清霜」の溺者救助作業は、5時間半に及んだ。この間、多くの乗員たちが重油にまみれた状態で海中に沈んだ。翌25日の1時30分に救助作業は終了し、収容者を満載した二隻の駆逐艦は、マニラ湾に向かった。この時救われた「武蔵」乗員は1,376名に及んだ。
10月23日から25日までに、フィリピン・レイテ沖で繰り広げられた「レイテ沖海戦」で、日本海軍は戦艦3隻、航空母艦4隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦11隻、潜水艦3隻を失い、連合艦隊はここに事実上壊滅した。
第四章 「武蔵」乗組員たちの足跡
「武蔵」乗組員を乗せた駆逐艦「濱風」と「清霜」は、1944(昭和19)年10月26日にマニラへ到着し、「武蔵」乗組員はマニラ湾口にあるコレヒドール島に収容されることとなった。
コレヒドール島では、日本軍の爆撃を受けて放置されていた米軍のマイルロング兵舎に「武蔵」乗組員たちは収容された。兵舎では、27日より加藤憲吉副長を中心に戦闘詳報会議が開かれ、現在残っている戦闘詳報はこの時の会議が元になっている。11月に入ると、乗組員たちの内地帰還が始まった。16日に第一次帰還組420名はマニラへ出発、23日にマニラから大型貨客船「さんとす丸」に便乗し、約1,400名の引揚者と共に一路日本へ向かった。
11月25日1時10分、「さんとす丸」を補足していた米潜水艦「アトゥル」は魚雷6本を発射し、護衛に当たっていた「第三十八号哨戒艇」と「さんとす丸」に命中、「さんとす丸」は沈没した。生き残った約120名の「武蔵」乗組員は護衛をしていた「第三十三駆潜艇」と「第百二哨戒艇」に救助され、台湾の高雄へ届けられた。
12月1日、第二次帰還組200名は改装空母「隼鷹」に乗艦し、マニラを出発した。長崎県の野母岬に差し掛かった所、米潜水艦「シーデビル」「レッドフィッシュ」「プライス」の3隻より雷撃を受け、「隼鷹」は機関を損傷したが、無事に佐世保へ到着した。高雄へ残されていた第一次帰還組のうち約60名は12月17日、特設水上機母艦「讃岐丸」へ便乗し、25日に門司へ無事に到着した。
一方、全ての「武蔵」乗組員が帰還組に含まれたわけではない。コレヒドール、マニラに残留したものはフィリピン方面の各守備隊に配属され、続くフィリピン地上戦
でほとんど戦死を遂げる運命にあった。結局、生きて祖国の土を踏めたのは、出撃時の乗員、2,339名の内、約450名でしかなかった。
軍艦武蔵会