三菱長崎造船所内有馬事務所から送られた書簡
ここで紹介するのは、「軍艦武藏」の建造時、秘匿のため三菱長崎造船所に置かれた「長崎監督官事務所内有馬事務所」より送られた書簡である。差出人は海経29期の児島義和主計中尉で、宛先は「長門」主計長の佐藤省主計中佐(海経9期)となっている。
この「長崎監督官事務所内有馬事務所」とは、昭和16(1941)年9月15日から昭和17(1942)年8月5日まで三菱長崎造船所内に置かれた、艤装中の「第二号艦」=「武蔵」を秘匿するための通称であり、艤装員長であった有馬馨大佐(海兵42期)の名字から付けられたものだ。約1年間、機密が漏れないように厳重に警備されていた部署であるので、このような書簡はとても貴重である。
このページでは、まず「武蔵」の艤装について述べていきたい。なお、本項は基礎書籍として手塚正己『軍艦武藏』上、太田出版、2015年(以下、手塚と表記)を使用し、注は[]にて表す。
式台に上がった海軍大臣及川古志郎大将(海兵31期)が、進水命名書を朗読した。
「軍艦武藏、昭和十三年三月工ヲ起シ、今ヤ船体成ルヲ告ゲ、茲ニ命名ノ式ヲ挙ゲ、進水セシメラル」
「第二号艦」はこの日、「武蔵」と命名されたが、海軍はこの艦名を使用することを禁じて、竣工されるまでは依然「第二号艦」の秘匿名で通した。(手塚、22〜23頁)
同型艦の「大和」より遅れて5ヶ月後、昭和13(1938)年3月に三菱長崎造船所で起工された「第二号艦」は昭和15(1940)年11月1日、進水式を迎え「武藏」と命名された。
「達第二百四十一号」『昭和15年1月〜12月 達』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12070107900、528頁。
画像は、海軍部内に「軍艦武藏」の命名を知らせるものであるが、海軍大臣が嶋田繁太郎大将(海兵32期)となっている。進水式当時の海軍大臣は及川大将であるので、これは「有馬事務所」がなくなる昭和17年8月5日以降に追加されたものだと考えられる(17年8月当時の海軍大臣は嶋田繁太郎)。上記にあるように、命名後も「武藏」の名前が部内にも隠されていたことが分かる。
進水式の後、三菱造船所内の向島岸壁に係留された「第二号艦」は装備や設備を取り付ける艤装という作業に入った。この艤装の時から、後にそのまま艦長となる艤装員長が任命される。
「昭和十六年九月十日」『昭和16年2月8日 昭和16年9月11日 海軍辞令公報(部内限)』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13072110000、559頁。
昭和16年9月10日、上段右から4人目の有馬馨大佐(当時比叡艦長)が艤装員長に任命される。もちろん辞令には艤装員長の文字はなく、「佐世保鎮守府附被仰付」とだけ記載されている。これ以降、「武藏」が竣工して正式に海軍に編入されるまで、辞令上では有馬大佐は「佐世保鎮守府附被仰付」のまま推移していく。余談であるが、有馬大佐の後任の比叡艦長は西田正雄大佐(海兵44期)で、有馬大佐から左へ4人目の位置載っている。
「昭和十六年九月十日」『昭和16年2月8日 昭和16年9月11日 海軍辞令公報(部内限)』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13072110000、565頁。
この日の公報には艤装員として、後年戦史家として有名になる千早正隆大尉(海兵58期、後中佐)も辞令に記載されている。もちろん、有馬大佐と同じく「佐世保鎮守府附被仰付」としか記載されていない。
千早中佐は著書の中で、この艤装員時代について記述している箇所がある。この時期の艤装員の様子が分かる記述は他にないので、引用して参考としたい。
昭和十六年九月の中旬、私は佐世保鎮守府付という辞令を受けた。連合艦隊を充実するために艦船、人員を動員しているときに、そのような一見すれば閑職に転配されるのかと思ったが、間もなくその疑問はとけた。その当時に三菱重工の長崎造船所で秘密のベールにつつまれて建造中であった第二号艦(のちの武藏と命名)の高射長予定者としての、身分をかくしての命課であった。第二号艦は昭和十七年の初夏に予定されていた竣工後に、連合艦隊旗艦となることになっていた。私は艤装員長(艦長予定者)と最初から行動にともにした関係から、海軍省や造船所との交渉をも引き受けさせられた。ー千早正隆『日本海軍の戦略発想』プレジデント社、1982年、17〜18頁。
『大和』型巨大戦艦の建造は、海軍部内においても最高の機密扱いにされていたから、私の第二号艦艤装員の辞令発令も、部内には公表されなかった。事実、翌年度の海軍士官名簿の私の補職欄はブランクにされていた。
ということは、われわれ艤装員は海軍部内からも隔離されたことを意味していた。最初に同艦の艤装員を命ぜられたのは、艤装員長の有馬馨大佐(海兵42期)の下に、私、私の下のクラスの士官[海兵59期の鈴木孝一大尉]が三名と、主計兵曹が二、三名という少人数で、九月二十日頃、造船所内の海軍監督官事務所の一階の東側に、機密保持のため有馬事務所という看板を掲げて仕事を始めたが、海軍部内からの通信は文書に限られていた。それも海軍公報などが主で、海軍部内の動きなどは皆無であった。緊迫の度を深めていた時局の動きも、新聞記事だけが情報源であった。それに身分を隠しての仕事であったから、海軍部外の人はもちろん、旧知の海軍士官との接触も慎まなければならなかった。ー千早正隆『日本海軍の驕り症候群』プレジデント社、1990年、45頁。
「武藏」がいかに秘匿された存在だったか、お分かりいただけただろう。特に、「旧知の海軍士官との接触も慎まなければならなかった。」とあるように、この書簡が残されているのは非常に貴重なことである。「有馬事務所」の厳戒態勢ぶりを示す、このような話が残っている。
有馬馨艤装員長が下士官二名を伴って三門を通過しようとした。下士官たちは問題なく通れた。だが、有馬艤装員長の腕に腕章がないことに気がついた警備員が、待ったをかけた。
「わしは艤装員長だが」
「たとえ艤装員長であったとしても、腕章を持っていない方は中に入れません」
「だがなあ……」
「造船所のほうから海軍さんのほうに、通行を許可する腕章を支給してありますので、それがなければ通行できません」
警備員の断固たる態度に、有馬艤装員長は返す言葉もない。
[中略]
夕刻、事務所に帰ってきた有馬艤装員長は、准士官以上を集めると、三門で足止めされたことを話した。
「艤装員長のわしまで入れてくれないのだよ。みんなも気をつけてくれ」(手塚、34〜35頁)
「昭和十六年十一月四日」『自昭和16年10月 至昭和16年12月 海軍辞令公報』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13072083000、1685頁。
児島義和主計中尉は昭和十六年十一月一日、「佐世保鎮守府附被仰付」の辞令を受けて、同月8日に厳戒態勢下の「有馬事務所」へ赴任している。児島主計中尉が艤装員としてどのような仕事をしていたのか、手紙の文面から読み取りたい。
拝啓
暮秋の候益々御清武の御事と奉恐察候。
私儀八日長崎三菱造船所内有馬事務所に着任、艤装事務に日を逐はれ居候。何分にも総て創設の事とて諸例則、横鎮例規を始めとし準拠をすべき各種法規の準備より始め、又諸公報無き為長門在艦中の事々を想ひ浮ベて処理する有様にて遅々たるもの有之候も僅少なる経験を基礎とし所存通に総ての準備に当ることとて実に愉快に勤務致居候。
只今は長崎市中の中川寮と称する料理屋跡の殺風景なる下宿に大部分合宿し、電車渡船にて対岸の監督官事務所に出勤致居候。何分始めての娑婆生活にして生活の容易ならざるを身に泌みて感じ居候。長崎は肉類は殆ど無く魚類のみで毎食実に貧弱、艦の如く贅沢なる食事は夢の如きものに有之候。
主計長は石渕[知定、海経10期]主計中佐、その他長門より小代[正、海兵51期]少佐、千早少佐、准士官、下士官兵多数来り顔見知りの者多く心強く勤務出来之に過ぐるもの無之候。
在艦中は種々御配慮御鞭撻を辱うし深謝仕候。尚今後共御指導御鞭撻の程願上候。
時局益々多端の折、謹みて御武運の長久を祈上候。
児島義和
海軍主計中佐
佐藤 省 殿
児島主計中尉は法規類の取りまとめを行っていたようである。海軍には軍艦例規や会計法規など、海軍として行動するための各種法規が存在していた。主計科は補給や食事に関わるイメージが強いが、例えば所属する人員の俸給を計算したり奉職履歴や各種通達の管理など、海軍の事務仕事を一手に行っていた。そのため、軍艦として行動していくにあたって各種法規が必要であり、児島主計中尉はその担当であった。他にも、軍艦の食事に比べて貧弱とあるように、当時の連合艦隊旗艦での食事がいかに普通とは違っていたか、海軍の様々な側面が垣間見れるユニークな書面となっている。しかし、機密にうるさい中で「有馬事務所」からの差し出しに艤装を行っていると分かる文面でも送ることが出来たということは驚くべきことである。太平洋戦争開始以前であり、軍事郵便のような検閲を個人書簡には行なっていなかったのだろうか。
昭和17年6月26日、三菱長崎造船所の手を離れて軍港に回航された「二号艦」は、残りの艤装工事を終了すると、内海西部での公試運転に於いて、様々な試験を実施して、軍艦としての諸機能を確認した。
同年8月5日午前9時、「二号艦」甲板上において竣工引き渡し式が挙行された。祭事、授受式が終わると、乗員を前にした有馬艤装員長は、「海軍大佐有馬馨、只今より艦長として軍艦武藏の指揮を執る」と力強く宣言すると、後部旗竿に軍艦旗が掲揚された。ここに「二号艦」は、軍艦「武藏」と正式な艦名が与えられ、艦籍名簿に記載された。
『昭和17年7月〜9月 内令 3巻』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12070164400、1518頁。
それに伴って、それまで「佐世保鎮守府附被仰付」だった艤装員たちは、正式に「武藏」乗組員に任命された。
「昭和十七年八月五日」『自昭和17年7月 至昭和17年10月 海軍辞令公報』JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13072086500、645〜647頁。
有馬大佐は「補武藏艦長」に、千早少佐は「補武藏高射長兼分隊長」、児島主計中尉も「補武藏乗組」になっている。進水式から1年9ヶ月後、ようやく「武藏」が誕生したのである。
以上、「有馬事務所」から差し出された書簡を紹介すると共に、「武藏」艤装についても記述した。「武藏」は誕生までに、様々なプロセスを経ており、その機密保持に海軍がいかに注力したかが見えたのではないかと思う。
最後に、文面から暖かな人柄が想像できる児島義和主計中尉であるが、サイパン方面にて戦死されたようである。謹んでご冥福をお祈りする。
軍艦武蔵会
<参考文献>
手塚正己『軍艦武藏』上、太田出版、2015年。
千早正隆『日本海軍の戦略発想』プレジデント社、1982年。
千早正隆『日本海軍の驕り症候群』プレジデント社、1990年。
大井篤『『戦艦大和』建造計画決定秘話』戦艦大和ガンルーム会、1993年、非売品。
松永市郎『思い出のネイビーブルー』海文堂出版、1977年。